熟年離婚を悲劇にしないために

熟年離婚を悲劇にしないために

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増え続ける熟年離婚

何年か前、「熟年離婚」というテレビドラマがありました。渡哲也さん扮する夫が、妻に定年退職を機会に突然離婚を宣告されるという話らしく、「渡哲也で離婚されちゃうんなら俺はどうなる」と、世のオジサマ方に恐慌状態を引き起こしたんだそうな。ドラマの筋は残念ながら見ていないのでわからないのですが、いわゆる熟年離婚(夫の退職を機にということでくくっての)は今でも多いですよ。

もちろん年金分割が法定されたせいもありますが、そのことに限らず、もっと実質的な理由が多いように思います。夫の方は、定年退職したら、女房と2人でのんびり過ごしたいと、夢を描いているんでしょうが、女房の方は、夫が家庭にいなかったからなんとか耐えてこられたのに、これから2人きりなんて冗談じゃないとある意味恐慌状態になっているわけですよ。これだけでわかるとおり、夫婦としてはとっくに死に絶えた関係になっているんですね。夫婦の実態はない。いや、男性の方がどう考えているかは知りません。ドラマだって夫の方は寝耳に水で大騒ぎになっていったようですから、、、。この、「女房の方は考えた末で、夫の方は寝耳に水と」いう事案は多いですね。熟年離婚に限らず、、、。

熟年離婚の一番の原因とは

以前、どうしても離婚したいという妻の側の代理人をしていて、夫側の代理人から「うちの依頼者がどうして離婚されなきゃいけないのか全く心当たりがないって言っているんだけど、先生そっちの依頼者に本音を聞いてよ」と頼まれたことがありました。

しかたないので、うちの依頼者である女房に「何で離婚されなきゃならないのかわからないって言ってるよ」と伝えたところ、妻が大笑いをして言いました。「そんなこといっているんですか、この期に及んで心当たりがないなんて、それが一番の離婚の原因だと伝えてくださいよ」もちろん、そのまま伝えました。夫側の代理人にはうけてましたね、ただ、夫本人は理解できないだろうなって苦笑していましたが。

で、熟年離婚ですが、夫婦の実態がなくなって久しく、愛情なんてひとかけらも残っていないんですが、それでも共同生活をしていくには困らないという状態が続いている。なぜって、妻から見たら、夫はそもそも毎日遅いし、日曜日はゴルフだし、顔を合わせる必要もなければ話をする必要もない、毎月生活費はくれるし、じゃまにはならない。夫の方だってそれを夫婦の正当な形だと誤解して久しいから、自分たち夫婦が内部から腐っていることに気づかないまま何十年もきている。それが、夫が毎日家にいるという事態を迎えてバランスを失って火を噴くわけです。

しかし、このような事態を招いたのは双方の責任とはいえ、人生は短いのです、多くの時間をむなしい婚姻生活と虚構の日々で費やしてしまったことの代償はあまりに大きいのではないでしょうか。子供がいる場合には次世代にも悪影響が出ます。

こういった夫婦の子供達は、将来きっと同じような夫婦生活を送るんでしょうね。そして、こんな風に言うと思います。「愛情?そんなもの夫婦に必要ないよ、うちのパパもママもそんなもの一つも持ち合わせていなかったけど、ふつうに何十年も夫婦やってたよ。」本当の熟年離婚の悲劇はここにあるのです。

悲劇にしないために

では、熟年離婚を悲劇にしないためにはどうしたらいいのでしょうか。まず、愛情が消え失せていることを自覚したら、無意味な形だけの生活から出来るだけ早く脱却することです。退職を待って(退職金を一つの分与財産として的を絞り)、離婚を切り出してくる妻は多いと思いますので、そこまで行く前に、退職という時期が視野に入ってきた段階で、本当に妻と定年後も楽しくやっていけるのかを見つめてみることです。

その際大事なのは、自分勝手な要望ではなく、妻自身が夫である自分と新しい日々を送ることを楽しみにしてくれているかをよく見定めてみることです。そうでないのであれば、何が問題なのか、愛情はもう跡形も無く残っていないのか、まだ虫の息ではあっても、復活する可能性はあるのか、シビアな判断は必要です。

その上で、復活の余地無しとわかったら、どのように第2の人生をお互いが豊かに暮らせるのかを冷静に判断することです。若い夫婦の離婚と異なり、あまり、揉めている時間も無いわけです。その代わり、ある程度築いた財産があることが多いので、効率的に分与することを考えていくべきであると思います。

しかし、一番良いのは、そもそも熟年離婚をまねかないことです。そうするためには、いわずもがなですが、日頃から、夫婦でいる意味を考えることです。単に掃除・洗濯・自炊するのが面倒だからではなく(そんな事は家政婦さんを雇えば終わります)、なぜ、この人でなければならないのかを考え求め、自覚することです。離婚されないためには、結婚していることの意義を作ることではないのでしょうか。